フランス革命という出来事が何であるか
〈フランス革命〉と言われている出来事は、の時点で、すでにフランス革命と言えるのか。
現代でのフランス革命
フランス革命フランス革命(la Révolution Française)フランス革命 (新しいタブで開きます)は、人権宣言人権宣言(la Déclaration des Droits de l’Homme)人権宣言 (新しいタブで開きます)のためであったり、現代社会の源流となったことは否定し難いようです。現代社会の源流となったことは
これほど影響力のある出来事であり、フランス革命と呼ばれている事象が様々な次元に及ぶため、一言で定義することは困難であると言わざるをえません。
それなのに、同時に、「フランス」を省いて、親しまれ、ただ《革命》と呼ばれてきたものとして一元的に語られているように見えるため、語り方によって、革命の意義が真反対に異なることも不可能なことではありません。
一般的に、教育施設などでは、ソフィア・コッポラソフィア・コッポラ(Sofia Coppola)ソフィア・コッポラ (新しいタブで開きます)が製作したマリー=アントワネットマリー=アントワネット(Marie - Antoinette)マリー=アントワネット (新しいタブで開きます)映画のように、展開が決定的に省略されすぎていて、革命を暴力としてしか位置づけていないため、国民は矛盾とあいまいさの中に陥ってしまうことになります。
そういった意味で、以上が経った現代でも、革命はまだ権力者たちにとって恐ろしい出来事としてしか意味づけられていません。
耳で、「か・く・めい」との言葉を聞くだけで、人々が無意識のうちに畏怖の念を抱き、この大きな出来事が何であったのかについて興味を寄せようとせず、複雑で理解しがたいものとして敬遠する傾向が一般的です。
フランス革命とは?
革命という言葉
「革命」という言葉が指し示す出来事には、不思議な含意が含まれています。
「革命」は、「天命が革革(あらた)革まること」の意を表し、王が亡くなられる出来事として、王を亡くす物語になりがちで、国民が思い浮かべ想像している通りである点です。
この出来事を「革命」と呼ぶだけで、その出来事が必然的に起こったものとなってしまいます。
それに対して、当時に生きた人々は、そういった必然性の意識を持っていたかと考えると、見方が変わります。
革命は、いつから
現代、一般的に、革命は、に始まったといわれていますが、当時に生きた人々が現代我々が革命と呼んでいる出来事の可能性を意識していたかどうかといいますと、「していなかった」のは間違いありません。
実際、現代の歴史家たちが最近(最低以降からでも)指摘してきた通り、の前から、ルイ十六ルイ十六(Louis seize)ルイ十六世 (新しいタブで開きます)から歴史家ジャン=クリスチャン・プティフィスジャン=クリスチャン・プティフィス(Jean - Christian Petitfils)ジャン=クリスチャン・プティフィスによって「ロイヤル革命ロイヤル革命(la Révolution Royale)ロイヤル革命 (新しいタブで開きます)」と呼ばれた革命もあります。
あくまでも人々は、時点においても、以上前の、いわゆるフランス王国がカペー朝を開いたユーグ・カペーユーグ・カペー(Hugues Capet)ユーグ・カペー (新しいタブで開きます)の治世が始まるから ずっと引き続きフランス王国は維持されているという意識で見ていただろうことを忘れてはいけません。
なので、バスティーユ襲撃バスティーユ襲撃(Prise de la Bastille)バスティーユ襲撃 (新しいタブで開きます)から始まったと言われているの火曜日の段階では、経過後、国民公会国民公会(Convention Nationale)国民公会 (新しいタブで開きます)の議員たちにの月曜日に王がギロチンによって斬首刑に処されるなど、誰も予想できなかったことは言うまでもありません。
王の死はから
王の死 (新しいタブで開きます) が可能となったのは、であります。
回りの他の王政の国々の連合軍――主にプロイセン軍とオーストリア軍――が東北フランス国境に集中してきます。
同盟軍の計画が、発せられたブラウンシュヴァイクの宣言ブラウンシュヴァイクの宣言(Manifeste de Brunswick)ブラウンシュヴァイクの宣言 (新しいタブで開きます)で司令官ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公(Herzog zu Braunschweig und Lüneburg)ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公 (新しいタブで開きます)が表現した通りです。
侵攻して、立法議会立法議会(Assemblée législative)立法議会 (新しいタブで開きます)から王を釈放するとの内容で、恐怖を突然に植え付けたのです。
それに対して、悲劇的な選択が立法議会議員らに迫って来ます。
何もせずに待ってしまいますと、立法議会が軍事的機能を失うことは明白です。 (新しいタブで開きます)
軍事的な抵抗をするほかはないのです。
応王政愛や立法議会 (新しいタブで開きます)への不信感で裏切る名門貴族出身軍隊士官も出ている環境で、立法議会 (新しいタブで開きます)が「祖国は危機にあり!祖国は危機にあり!(la Patrie en danger)祖国は危機にあり! (新しいタブで開きます)」との宣言によって、 「ボランティアたちボランティアたち(les volontaires)ボランティアたち」に呼びかけ、彼らはそれに応じ、徴兵に莫大な数で応えました。
このボランティアたちはのちに「1792年のボランティアたち1792年のボランティアたち(les Volontaires de 1792)1792年のボランティアたち」と呼ばれるようになりました。
彼らが戦線に向かって歌っていた軍歌が、後で十九世紀末にフランス共和国の国歌として選ばれた「ラ・マルセイエーズラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)ラ・マルセイエーズ (新しいタブで開きます)」です。
君主制廃止としての革命
、ヴァルミーの戦いヴァルミーの戦い(Bataille de Valmy)ヴァルミーの戦い (新しいタブで開きます)で、最初の勝利が決まります。
翌日の、「国民公会」と名を改めたばかりの旧立法議会 (新しいタブで開きます)では、新しい会期の初日で、王政廃止宣言王政廃止宣言(Abolition de la Royauté)王政廃止宣言になります。
それで王政がなくなって、第一共和政第一共和政(Première République)第一共和政 (新しいタブで開きます)が戦争中に、発足しますが、王政がなくなって、そのまま、「共和政」との形は、自ら望まれた形ではなく、攻めに当たって、王政がなくなった後に成立した形として、一切余裕なく、誕生してきます。
そこから、からまでの、フランスに現れた革命政府が、他の王政諸国と戦争する状態に陥る「フランス革命戦争フランス革命戦争(les Guerres de la Révolution française)フランス革命戦争 (新しいタブで開きます)」。
ただ、からまでもの、「ナポレオン戦争ナポレオン戦争(les Guerres napoléoniennes)ナポレオン戦争 (新しいタブで開きます)」の名で《革命》と王政の対立が再開しますので、ずっとからナポレオンナポレオン(Napoléon)ナポレオン (新しいタブで開きます)が敗北するワーテルローの戦いワーテルローの戦い(la bataille de Waterloo)ワーテルローの戦い (新しいタブで開きます)のまで、およそも続いたのだとは十分断言できます。
ここでは、その対立の結果に触れないようにしますが、その時までのヨーロッパを大きく変えたことは明らかです。
で始まった出来事は、革命でしたか?
現代から、革命は王の死刑と王政廃止に捉えられるのでしたら、の時点では、革命だとはいえる段階 ではありませんが、のそれに導く必然的な始まりとしては、が立っています。
それで、現代言われている革命が革命として、始まりは、バスティーユ襲撃 (新しいタブで開きます)と終わりは、王の死 (新しいタブで開きます)があって、対照的に、他の区分と違って、自立して存在することになっています。
当時の人たちには、明らかに王政廃止を望んではいなかったにしても、王政枠内に、根本的な変更を期待してはいなかったとは、誰も断言できません。
変更が期待されていたのは、明らかですが、それは、何に対しての期待だったかとなると、そこに、まだ王政は王政として問題になってはいないので、意外と曖昧で、いろんな見方があるため、非常に難しい問題となりますが、そこが、より、出来事の意義として、興味深いでしょう。
フランス革命は、一つの出来事として紹介されていることが多いのですが、自分で理解しようとすると革命自体がいろんな革命から形成されていて結晶化したことが見えて来ます。